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2015年6月11日 (木)

前橋 龍海院の謎。

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前橋、紅雲町に建つ「龍海院」というお寺。

江戸時代の前に建てられました。

戦時中、前橋の空襲でも焼け残り、多くの避難民を収容しました。

ですので、未だに幼い頃ここで過ごした思い出話を語るお年寄りのお話を多く聞きます。


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この龍海院の奥に、立派なお墓がいくつも建っています。

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通路を挟んで、大きな墓石が並ぶ霊廟です。

どんな方たちが眠っているのか?

ここには江戸中期から幕末までの、姫路藩主の墓が並んでいます。


…え?なんで?

どうして前橋のお寺に、あの国宝姫路城で名高い姫路藩(現兵庫県)の藩主のお墓が並んでいるのか?

およそ120年に渡る10名のお殿様が眠っています。姫路のお殿様が、前橋に。なんで?

もちろん、それには理由があります。

しかもその理由には、やむにやまれず、抜かれた刀があるのです…。




その昔、豊臣秀吉は有能ですが危険と考えた家臣、徳川家康に関東行きを命じました。

家康は古くからの家臣を引き連れ、関東を目指し、やがて江戸を切り開きます。

その時追いてきた家臣、酒井家に、北の要衝前橋の守りを命じます。

そこから酒井家は前橋藩15万石の譜代大名筆頭として江戸時代の幕開けを迎えます。


名門中の名門ですが…。

前橋藩は貧しい土地柄、15万石というのは権威のための名目で、実高はそんなに多くありません。

しかも、利根川が氾濫の度に農地は荒れ、前橋城さえも削り取って行ってしまいます。

領民は疲弊し年貢もままならず、おまけに城の修繕費も莫大な額がかかり、名ばかり名門ですから江戸幕府内での付き合いでも見栄を張るために出費がかさみ…、

そんな中、ついに利根川は前橋城を丸ごと持って行ってしまいました。

名門が今や城なし石なしの藩主です。

酒井家がそんな惨めな思いをしていたちょうどその時、遠く姫路藩で藩主が若くして亡くなりました。

姫路藩に残されたのは幼少の子息のみ。名城姫路城を擁する要衝、姫路藩をこのまま幼子に任せて良いものか…?幕府内にそんな不安がよぎりました。


それを聞きつけた前橋藩の老中、本多光彬と、用人、犬塚又内は、「これはチャンス!」と考え幕府に裏工作を開始します。

つまり、姫路藩へのお国替えです。同じ15万石と言いながら、姫路は機内の先進地、内実はより豊かであり、なににもまして城なし藩には眩しい輝きを放つ姫路城がそびえているのです。

二人の工作は首尾よく進みました。

もちろん幕府に対する工作は口だけではありません。江戸幕府を動かすには賄賂が付き物。多額の金品が費やされました。

その賄賂の金をどこから捻出するかと言えば、すでに厳しい暮らしをしている領民から搾り取るしかありません。領民の暮らしはますます困窮を極めました。

しかし、九代藩主酒井忠恭(さかい ただずみ)も、「え?!姫路城もらえるの!超ラッキーじゃん!スゲー!」と乗り気です。

そんな中、前橋藩のもう一人の老中、川合定恒(かわい さだつね)はこの工作に猛反対しました。

「前橋藩は家康公より直々に任された土地である。その土地を城欲しさに移ろうとは忠義に反し言語道断。しかもそのために領民の暮らしを脅かすとは何事か!」

まあ、おっしゃる通りです。

しかし、君主の意向もあり、本多と犬塚から、「お前も悪いようにはしないから。な?」と説得され、しぶしぶ川合も了解し、姫路藩へのお国替えは成功しました。

姫路藩に順次引っ越しの際中、姫路城下の船場川が大雨で決壊、大洪水になりました。

先だって姫路に入り引っ越しの準備をしていた川合は、独断で避難民を城内に収容、被災者に米蔵から備蓄米を与え救済しました。

その後、引っ越しは無事に終わり、酒井家は姫路藩主となりました。

川合は、自邸に本多と犬塚を招き、慰労会を催しました。

以下、ちょっと時代小説風に書いてみます。


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三名の宴席は酒が進んだ。

お国替えは大事業であるとともに、洪水の被害もあり難を極めた。三人三様ながら肩の荷が降り、一息つくにはうってつけの酒席であった。

「川合、お前を悪いようにはせんと言っただろ?」 本多が酔いに坐った目でそう言った。

「引っ越しのどさくさで、お前、米蔵を空にしたが、わしと犬塚で殿を言いくるめたからこそ沙汰なしで済んだのだ。ありがたく思え。」

川合は静かに杯を傾けている。

犬塚が気を遣い、「まあ、今回の洪水で一時は石高は減るでしょうが、前橋に比べれば気にすることはありません。領民の死んだ数も400人程度で済んだ。たいしたことはない。」

「…400人で済んだか…。」川合は先ほどから肴に箸をつけていない。杯だけを傾けるのみである。

「ろくに野良にも出んで、大水の度に一揆ばかり企てる水飲み百姓だ。400人ぐらい減ってもまだ足りんくらいじゃ。」本多はがなり立てた。

「川合、なにを暗い顔をしておる?お国替えで殿も大喜びだ。白鷺城も手に入った。俺たちの禄高も上がった。こんなに喜ばしいことはない。」

「酒井家は譜代筆頭。しょせん上野前橋では役不足だったのです。」そういう犬塚も顔を赤らめながら川合に酒をすすめた。

「川合殿、よく説得に応じてくれました。川合殿の奔走あっての大成功です。ま、一杯。今日はいつになく杯が空きますな。肴を召し上がらないと悪酔いいたしますぞ。めでたいめでたい!ははははは!」

「…めでたいめでたいか…。」また、川合が伏し目がちにつぶやいた。

「…確かにめでたい。酒も進むな。ずいぶんと酔うてしもうた。失礼。」

川合は体を後ろに投げ出し手を突いた。楽な恰好のまま二人に続けた。

「我々はその通り。めでたいめでたい。しかしな、どうしてもわしはこのお国替えは家康公への忠義に反すると思うのだ。」

川合は天井を見上げた。そういえばこの酒席で、川合は一度も二人と視線を合わせていない。

「前橋藩の領民を苦しめて、その金のおかげ相成った。でめでたいめでたいだ。わし達は遠い姫路でうまい酒と肴で遊んでおるが、残された前橋の民は更なる苦境にあえいでおる…。」

「川合、酒に飲まれたのか?ろくに飲めんくせに。」本多が不機嫌そうに言った。

川合は体の向きを変え、床の間に手を伸ばしながら続けた。

「それを思うとな…、わしはどうしても、おぬしら二人を許すことができんのだ…。」

言い終わった時には、すでに川合の左手に床前に掛置してあった太刀が握られていた。

あまりの自然な仕草に、本多と犬塚は未だ膳の前に坐している。

「川合…?!」

本多があわてて立ち上がろうとした時には、すでに白刃が翻っていた。

本多はそのまま膳の上に突っ伏し動かなくなった。

犬塚は背後に走り自分の刀を取ったが、後ろから袈裟懸けに切られ右手は柄ではなく空を掴み、どっと倒れた。

二人の絶命を確かめ、川合は酒の残った自分の杯を飲み干した。

そして城の方向に僅座し自害した。

ほんの二三日前まで引っ越しの荷物であふれていた屋敷は、すでにもぬけの空になっていたという。

隣室には君主への謝罪の書状がしたためてあった。

酒に飲まれたうえでの凶行でないことは、明白であった。

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この事件は瞬く間に城下にとどまらず世間に拡がりました。

当然、新しく姫路藩主となった酒井家の評判も悪くなるばかり。

「なんだ、今度の殿様は前橋の民を見殺しにして作った金で姫路藩を買ったのか。」と揶揄されます。

酒井の殿様が「違うよお!幕府がこっちに国替えしろって言うから来たんだよお!別にお城なんか欲しくなかったもんね!僕!」と言っても誰も相手にしません。

それからしばらくして藩主酒井忠恭は亡くなります。

さて、どこにお墓を作るか?

元の菩提寺は前橋藩の龍海院です。しかし、現在は姫路藩主となりましたので、姫路に菩提寺を移すか、新しく設けるのが一般的だったようですが…、

酒井家はそうしませんでした。というか、できなかったのです。

そうしてしまうと、世間で「ああ、酒井の殿様はもう前橋時代はなかったことにしたいんだね。黒歴史だから。姫路デビューってわけか。ひどいね。」と言われるのが目に見えています。

「そんなことありませんよ!前橋のことは忘れてませんよ!民を犠牲にしてお国替えなんてそんなことしてませんよ。今でも前橋の領民と心は一つですから!」

…という体を繕うため、姫路藩主酒井忠恭は死後、遠い前橋に運ばれ龍海院に埋葬され墓が建ちました。

その後の藩主も同様に龍海院に墓所がつくられ、それは代々幕末まで続きました。


よって、前橋のお寺龍海院に、歴代姫路藩主10名の墓が建ち並ぶことになったのです。



さて、川合家は事件のあと御家断絶となりましたが、「川合の言うことにも理がないわけでもない。」ということで、子孫は苗字を「河合」に変えて城勤めを許されます。

河合家は優秀な人材を多く輩出し、特に河合道臣(かわい ひろおみ)は江戸時代後期に姫路藩の名家老として「姫路に河合あり」と謳われました。

彼の業績は、飢饉に備えて領地各地に米の備蓄庫を整備したり、サトウキビなどの付加価値の高い商品作物の作付けを進めて領民の生活を豊かにしたことでした。

また、木綿生産が盛んだった藩の綿製品を、大阪商人を介さず江戸に売る独自のルートを築くなど政治力を駆使して姫路藩の財政を立て直しました。

そのおかげで姫路藩は江戸後期には飢饉においても死者を出すことがきわめて少なかったとされています。

河合道臣は晩年の号「寸翁」の呼び名で、今でも兵庫県の人々の尊敬を集めています。


常に民のことを想った川合定恒の遺伝子が、絶えることなく後世に受け継がれたのかもしれません。








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コメント

夏に姫路城を見に行く予定でおりますが、前橋と姫路にそんな過去の繋がりがあったとは。
少し違った視点でお城を見られそうです。

某ヘアサロン様、コメント誠にありがとうございます。

史実とは、多くの場合、事実とはやや異なるのが通例でして、時代小説風に書いた部分は私の想像が多分に反映されています。

この刃傷というか殺人事件は過去に様々な小説家が題材にしています。

久生十欄(ひさおじゅうらん)の「無惨やな」という短編が有名ですが、それは「姫路隠語」という伝承書を元に書かれています。

「姫路隠語」も「無惨やな」も、川合の事件の動機は「家康公への忠義に反する」という体で語られていますが…・、

私にはそうは思えないのです。

彼が姫路へ移って早々、洪水に見舞われた領民を城の米蔵を空にして救いました。

私はその時に、彼が「二人を切ろう…。」と思いつめた気がしてならないのです。

「姫路隠語」では、彼は二人をそれぞれ別室に呼び、抜刀させた上で切っています。

ですが、川合家はその後河合家として姫路藩家老職を務める家柄。「姫路隠語」も騙し討ちのような物語は書きづらかったのではないのかなと思うのです。

騙し討ちではないという体で伝承は伝えられておりますが、私が思うに相手は切られるとは思っていなかったので、騙し討ちの範疇かもしれません。


川合は居合の達人として城下に知られていました。

宴席の最中、いつ抜かれたとも知れない刃に、二人が倒れたとしても不思議ではありません。


ですので、飛躍かもしれませんが、こんな場面を想像し、筆を走らせてしまいました。


事実は、今にしては誰も知る由はありません。

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